「越路吹雪物語」第54話のあらすじです。人気が高まったコーちゃんは、内藤法美を売り出したいと思いました。
時子に、法美のマネージャーを受けてもらえなかったコーちゃんは、別の計画を考えました。
内藤、時子、コーちゃんの三人で、レコードを作ることです。しかし、結果はよくありませんでした。
「越路吹雪物語」第54話あらすじ
引用元:http://www.tv-asahi.co.jp/koshiji/
東宝から独立したコーちゃんは、気鋭の演出家・浅利慶太との出会いにより、新たな越路吹雪の魅力を発揮し、その人気は、更に確固たるものになりました。
時子に、内藤法美のマネージャーを断られたコーちゃんは、作詞家・岩谷時子として、あるアイデアhが生まれました。
このとき、コーちゃんが思いついたのは、三人でレコードを作ることでした。すべての曲を内藤が作曲し、それに時子が詩を付け、コーちゃんが歌います。
コーちゃんは、「今年の紅白には、これを歌いたいな」と、「イカルスの星」を挙げました。でも、NHKは、「愛の賛歌」を歌って欲しいようでした。
「イカルスの星」は、内藤が作曲した歌でした。時子は、なんとか頼んでみると、言いました。
その年末の紅白歌合戦で、美保子は希望通り「イカルスの星」を歌い、一年を締めくくりました。
恒例の紅白出演が終わった後、コーちゃんと時子は、二人で年越しをします。コーちゃんが、時子の歳を聞きました。
年が明けると、時子は53歳、コーちゃんは45歳になります。コーちゃんは、「紅白って、いつまで出続ければいいんだろう」と、言いました。
コーちゃんは、1月に舞台があることが多く、紅白のリハーサルが重なると、歳とともに疲れるようにまってきたと、言います。
そんなkとを言う美保子の様子が、時子の心に引っかかったまま、新しい年が始まりました。
そして、3人で作ったレコードが、発売されました。しかし、残念ながら、思うようには、売れませんでした。
コーちゃん、紅白歌合戦を卒業する
その頃、時子の母・秋子の具合が、あまり良くありません。家で療養中の秋子を、美保子の主治医・杉尾医師が、往診してくれました。
時子は、往診の礼を言うと共に、次週の美保子の定期ガン検診もお願いしました。
時子は、コーちゃんの紅白卒業について、浅利慶太に相談をしました。浅利は、「辞めたいと思ったらやめたらいい」と、言います。
浅利は、辞めるのではなく、時子の卒業と言うのが、面白いと言いました。宝塚では、退団を卒業と言います。
時子は、「卒業は、得たものが多く、暖かい別れ」「その後、入学と言う新しい出会いがあり、ワクワクする」と、語りました。
浅利は、そのままの言葉で、相手に伝えれば、イヤとは言えないと、アドバイスしました。
そして、その年の秋、コーちゃんの紅白卒業のニュースが、駆け巡ると、いろんなところで騒ぎになりました。
「テレビ局を敵に回すと、まずいよ」「あの怪物番組に、出たいと思っている歌手が五万といる、かれらに恨まれるぞ」なども、言われました。
そのことで、コーちゃんと時子が話していると、美川憲一(本人)が、やって来ました。美川は、「そんなに簡単に辞めないでよ」と、言いました。
そして、その時の大晦日、コーちゃんは、たくさんの人々に向けて、心を込めて「愛の賛歌」を歌い、紅白歌合戦を卒業しました。
ある日、コーちゃんが、勢いよく走って時子のところへ来ました。「大変!」「売れてるって!」と、叫びます。
内藤法美の曲、「誰もいない海」が大ヒットしていました。
「誰もいない海」は、コーちゃんとの競作と言う形で、発売されました。しかし、ヒットしたのは、「トワ・エ・モワ」の方でした。
でも、コーちゃんにしてみれば、そんなことは、関係なかったのです。コーちゃんは、法美とヒットのお祝いをしました。
そこへ、時子から電話が入ります。時子の母・秋子の様子が、おかしいようです。
「越路吹雪物語」第54話の感想とまとめ
コーちゃんが、紅白歌合戦を卒業しましたね。紅白を辞退することは、歌手にとって大変なことですね。
その後の活動に支障がでたり、下手をすると引退することもありますね。
1969年当時も、大騒ぎだったようですね。週刊誌には、「わたし、紅白歌合戦を卒業させていただきます!」の見出しが出ています。
別の報道では、「『卒業ということにしましょう』と、局側も円満に辞退を認める」の記事もありますので、
時子の交渉が、成功したのでしょうか。
内藤法美の曲も大ヒットし、喜びの中、時子のお母ちゃんの容態が、悪いようです。どんな様子なんでしょうか。心配ですね。